近況

あの日からもう、キリンジという文字を見ても、そこに泰行さんは含まれないのだな、と考えてしまいます。
昔のアルバムを熱心に聴いていたけど、それもやめてしまった。
新しいアルバムにもあまり興味がわかない。キキは元から聴く熱心なファンではなかったけど、こんなことになってもやっぱり聴いてない。
もう、私にとっては、キリンジキリンジでなくなってしまった。
ライブはできるだけ行きたいと思っているけど、普通にしゃべっているキリンジは見たくない・聞きたくない。その理由、その違いはよく分からない。
いや、ライブにできるだけ行きたい理由は分かる。多分、ファンになった10年前とそんなに変わらない。できるだけキリンジのライブを見たい。それだけだと思う。その理由の裏には「いつか見られなくなったときのために、見れるうちに」というのがきっと隠れていた。「見られなくなる状態」としては「就職」「結婚」「出産」というのをイメージしていた気がする。自分が原因で見られなくなるというイメージ。まさか、キリンジ側の要因で見られなくなる日が来るなんて。
「普通にしゃべっているキリンジを見たくない・聞きたくない」気持ちも、書いているうちに分かった気がする。何事もなかったかのように振る舞っている二人を見たくないのだと思う。キリンジはもはやキリンジじゃないのに、あたかもキリンジであるかのように振る舞う二人の姿。痛々しい?滑稽?皮肉?どれも違うな。なんだろう。白々しい?これかも。
キリンジ、という四文字は私にとってあまりにも重い。10月1日の少しあとに、「祈りにも似ていた恋人の名前」について書いたけど。私がキリンジの名前を口にするときはいつも祈るような気持ちだったんだな、と思い知らされた。
ここには書かなかったけど、10月1日以降、キューブラー=ロスの「死の受容」という言葉も頭に浮かんだ。否認、怒り、取引、抑うつ、受容。ちゃんと見るとちょっと違うけど、私は今、抑うつの状態なのかもしれない。きっとしばらくしたら受容の段階に進めるはず。
私の20代と一緒に、私のキリンジは終わる。その終わりを穏やかに受け入れられるだろうか。